From the West to the East.〜maztoya's blog〜松任谷愛介日々彼是。

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    クリスマスクラッカーの謎(下) 16:44
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      (前号からの続き)

      謎だらけのクリスマスクラッカー


      クラッカーといっても季節の食べ物ではない。これは英国で160年に渡り親しまれている伝統的なクリスマスグッズである。

      全長30センチほどのキャンディーのお化けみたいなクラッカーは、その両端を隣の人としっかり握って、「せーの!」で勢いよく引っ張ると、独特の小気味のよい破裂音を発しながら中心部が破け、中から紙製の王冠、小さなプレゼント、そしてジョークが書かれた紙切れの3点セットが飛び出す。

      150年前、英国のケーキ職人トムスミス氏が、パチパチ燃える暖炉の火を見ながらケーキの販促品として考案したのがきっかけ。これが英国で瞬く間にブームとなり、以来クリスマスクラッカーを引っ張る習慣は英国クリスマスには無くてはならぬものとして代々受け継がれ、子供から大人までこよなく愛され続けることになる。

      12月に入ると英国では、デパート、スーパーから雑貨屋まで街中の店にクリスマスクラッカーが一斉に並ぶ。カラフルな箱が山積みとなってクリスマスデコレーションの演出に一躍買う事になる。そして待ちに待ったクリスマスパーティー。家族や親類を集めたクリスマス、会社の同僚たちのクリスマス・・・場面はさまざまだが、たいていの場合、ディナーパーティーは大きなテーブルに男女交互に座るようにアレンジされ、そこに無くてはならないのがクリスマスクラッカーなのだ。

      こんな人気商品が英国好きの日本人にほとんど知られていないのはなぜなのだろう? 調べてみたら面白いことが分った。厳しい日本の火薬法の関係で外国産の火薬入りクラッカーは輸入できないのだ。爆発物だから飛行機に乗せてお土産で運ぶことも出来ないという。なるほど面白グッズ大好きな日本人の目に留まらなかった訳だ。

      日本未進出のクラッカーだが、なんと大正11年に、しかも当時の英国皇太子エドワード・アルバート殿下によって日本上陸を果たしていた! 

      エドワード殿下といえば屈指のプレイボーイ、国王となったものの米国人女性(しかも既婚)と恋仲になり1年足らず王位を投げ出した男として有名。その殿下の日本滞在は、大正11年4月12日から5月9日までで、英国側の資料によると、渡日にあたって、当時の皇太子殿下(後の昭和天皇)へのご献上品リストの中に、クラッカーが入っていた。英国王室御用達クラッカー会社、トムスミス社による特製品で、極彩色クラッカー4本セット。日の丸の旗と巻物を持った古風な女性と蝶々が交互にクラッカーの上に鎮座しているというエキゾチックな、それでいて見る人の笑みを誘うデザイン。箱の裏面には「クラッカーの中には日本の人形、扇子、日傘、骨とう品の玩具、紙の帽子、そして日本のジョーク(英訳付き)が入っている」とある。

      ところがどういう訳か、当時の日本側の献納品リストにはこのチャーミングなクラッカーの記録が見当たらない。いったいどこへ消えてしまったのだろう。

      考えられるのは、日本側でクラッカーごときのジャンクは「とるに足らぬもの」として、あえて記録に残さなかったのか、あるいは日本に到着されたエドワード殿下が、クラッカーの上の「マダムバタフライ」の世界と現実の日本のあまりのギャップに気付いて、渡しそびれてしまったのか。事実は霧の中である。

      なぜ裕仁親王の手元に届かなかったのかと興味を持った頃、ロンドンの日本大使館筋から意外な情報が入ってきた。なんとエドワード殿下主催の晩餐会の前日、4月16日の午後に、宿泊先の帝国ホテルで出火があり、殿下の随員、従者の荷物の大半が焼失してしまったというのである。クラッカーはもしかするとその目的を達成する前に、遠い異国の地でパチパチと灰になってしまったのではなかろうか?

      洒落たセンスの持ち主エドワード殿下のこと、翌日の晩餐会では宴もたけなわになった頃を見計らって、懐からおもむろに特性クラッカーを取り出して、裕仁親王と両端を引っ張り合ってクラッカー遊びに興じ、中から出てくるユーモアたっぷりの品々を小さな贈り物とする予定だったのではないだろうか。もしそうだったならば、炎にのみ込まれてしまったクラッカーのことを、殿下はさぞお悔やみになったことだろう。

      この英国伝統のクラッカー、火事で焼かれてしまった品の他に2個、レプリカが存在している。ひとつはロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館で、もう一つが実は僕の目の前にある。15年ほど前、今は消滅してしまったトムスミス社の故ディグビー会長が、いつの日か日本の土を踏ませてほしいと僕に託したものだ。そのうちご子息にお返ししなければならないと、そのタイミングを待っているところだ。

      何はともあれもう直きクリスマス。24日の夕方から25日いっぱいは殆どの地下鉄の駅が閉鎖され、商店もそうそうに店終いして買い物も出来なくなる。飛行機の本数も減ってしまう。そして翌26日はボクシングデイでやはり休日だ。前日まで手紙やプレゼントを運んでくれた郵便屋さんへのお礼の休みだという。不便? 初めての年は戸惑ったが慣れれば何という事はない。古くからの習慣を守り続ける英国は、暗い冬でも居心地がいい。

      僕も仕事納めして、正月まで長〜い休みに入るのだ。


      (本稿は月刊ナイル寄稿文に加筆修正したものです)



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      クリスマスクラッカーの謎(上) 16:44
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        英国、冬の風物詩

        10月最終の土曜から日曜に変わるとき、夏時間から冬時間に変わる。時計を1時間先に進めなければならない。日没の時間がこの日を境に5時半から4時半になる。いよいよ憂鬱な季節の到来である。ノイローゼで自殺する人が急増するらしい。こんな暗くて寒い英国で生きていくための知恵なのか、この時期、宗教的なイベントが相次いで行われる。

        ハロウィンは10月最終週。スーパーでは大きなかぼちゃや仮装コスチュームが並ぶが、どうも英国のハロウィンは地味で盛り上がりに欠ける。たまに近所で子供達が悪魔や魔女に変身して「トリック・オア・トリート?」と、お菓子を貰いに家庭を回る姿を見かけるものの、そこは保守的な英国人家庭で育った子供たちのこと、決してアメリカ人の子供のように快活に遊びきれないで、親の目の届く範囲で遠慮がちにハロウィンを楽しむ。英国政府も、知らない家には行かないこととか、貰ったお菓子は親に確認してもらうことなどと警告を出している。米国流の派手なハロウィンは英国には馴染みそうもない。

        11月5日はガイフォークスデイ。むしろ英国人はこちらにフィーバーする。ガイフォークスという人物の国王暗殺の企てが失敗したことを祝う日。日本では打ち上げ花火は夏の風物詩だが此処では冬の特権。ワーグナーやエルガーの吹奏曲の生演奏に合わせて、これでもかと云う程の花火が、各公園やテムズ川沿いで打ち上げられる。日本の花火のような綺麗さはないが、火の粉が頭上に落ちてくるほどの近さで見ることが出来るのがいい。首の悪い人は要注意である。ヒースローに入るパイロット達もまた大変だろう。

        さて、それが終わると街はいっせいにクリスマスの飾り付けとなる。中でもリージェント通りのイルミネーションは必見。毎年有名アーティストがスイッチを入れるのが慣習となっている。パブやガソリンスタンドにはモミの木が山積みとなり、皆、車で買い付けにきて、家の表通りから一番見える部屋にツリーを飾る。一通りの仕度が済んだら後は静かに厳かにクリスマスを迎えるのみ。24日の夜は近所の子供達が賛美歌を歌いに各家庭を回り、人々は聖なる夜の施しを渡す。その施しは教会に集められ、クリスマスを祝えない環境の人たちへのプレゼントとなる。

        12月に入るとクリスマスパーティーが解禁だ。家族や親類を集めたクリスマス、会社の同僚たちのクリスマス・・・場面はさまざまだが、たいていの場合、ディナーパーティーは大きなテーブルに男女交互に座るようにアレンジされ、そこに無くてはならないのがクリスマスクラッカーである。


        (次号に続く)




















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        リチャード・トレヴィシックの短い物語 〜早すぎた天才発明家の生涯(下)〜 16:15
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          リチャード・トレヴィシックの短い物語
          早すぎた天才発明家の生涯(下)


          (前号からの続き)

          蒸気機関車の夢は破れたが、新天地ペルーでの銀鉱山事業に新たな夢を求めた気丈なリチャード・トレヴィシック(1771〜1833)だった。1816年にペルーのCerrro de Pascoに到着し銀鉱山のエンジニアの仕事を始めたが、間もなくオーナーと些細な事で折り合いが悪くなり、結局仕事を失ってしまう。

          町に居られなくなったトレヴィシックは、採掘技術のコンサルタントとしてペルー中を歩き回る。幸いにして彼の技術は各地で評価され、政府からも感謝の印としていくつかの採掘権付きの土地が与えられるなど、ようやく運が上向きかけた矢先のこと。

          再び訪れた悲劇。トレヴィシックの波瀾万丈の人生には運命の無情さを感じずにはいられない。当時ペルーはスペインから独立のための内乱が繰り返され、戦況は日増しに悪化していった。その時トレヴィシックが汗水流して稼いだ富は5000ポンドに及んだが、身を守るためには財産を放棄して国外に脱出しなければならなくなったのだ。彼は全てを置いてコロンビアに逃げた。

          ここでも不屈の根性で様々な事業を手掛けるが、運は巡って来なかった。終いにはジャングルでの悲惨な放浪生活となり、何度も死にかけたことがあったようだ。ある時はワニに襲われ川に引きずり込まれたところを間一髪、通りがかりの狩猟ボートの投げ縄に助けられたという。無一文のトレヴィシックは絶望の底に打ちひしがれていた。

          スティーブンソンとの再会

          英国はその頃産業革命の真っただ中にあった。トレヴィシックが発明した高圧蒸気機関車は後継者の手により改良され技術革新を牽引していた。鉄道は真に時代の寵児となる予感が漂っていた。鉄道時代の夜明け。これをリードしたのがジョージ・スティーブンソン(1781〜1848)とその一人息子ロバート・スティーブンソン(1803~1859)であった。

          ロバートは英国内だけでなく諸外国の鉄道建設にも関与していた。コロンビアの鉄道事業にも乗り出したが、これは結局失敗に終わり、1827年夏の終わり、敗戦処理を終えてCartagena港で英国行きの船を待っていた。その時、船会社の職員がロバートに声をかけてきた。

          「ねえ旦那、あちらにも英国人がいらっしゃいますぜ。ひどい身成をしているが何でも祖国では蒸気機関車を発明していたそうな。トレヴィシックという方だそうですが、金が無くては祖国に戻ることも出来やしない。」ロバート・スティーブンソンは桟橋から海を眺めるその男のもとへ駆け寄り、英国行きの船代として50ポンドを渡して手を握ったという・・・スティーブンソン24歳、トレヴィシック56歳の出会い。

          多少の脚色が入ってしまったが、この劇的な出会いは事実である。幼い頃ロバートは父ジョージに連れられて、蒸気機関の展示会で熱弁を振るうトレヴィシックを何度か見かけたことがあり、親子揃って彼に対する尊敬の念を抱いていたと言われる。コーンウォールの青い海に望郷の念を描いたトレヴィシックは、スティーブンソンの助けを得て、11年ぶりに故郷の土を踏むことになった。

          久しぶりに見る英国は様変わりしていた。トレヴィシック自身、長年の貧困生活ですっかり衰弱し、恐らく以前のような不屈で自信満々な面影は消え失せていたに違いない。そして何よりも悲しいことに、祖国に彼を待つ人は、家族を含め誰一人居なかった。

          蒸気機関車の魂

          その後トレヴィシックは気を取り直していくつかの職場を転々としながらエンジニアリングの仕事に従事するが、結果を残すこと無く肺炎を煩いこの世を去る。1833年4月、享年62歳。貧乏で孤独な終生だった。

          唯一の救いは、リチャード・トレヴィシックの血を受け継いだ才能があったことだ。子供のフランシス・トレヴィシック(1812〜1877)は鉄道技師長となり、英国の蒸気機関車の開発者にあたった。孫のリチャード・フランシス・トレヴィシック(1845〜1913)もまた蒸気機関車に従事した。

          1892年、日本の鉄道庁は、世界の産業革命にキャッチアップするべく鉄道技術の習得のため、アドバイザーとしてR・F・トレヴィシックを招聘した。日本の蒸気機関車第1号となる国鉄860型は、彼の総指揮によって造られたものである。R・F・トレヴィシックは寺の娘と結婚し、その後も神戸工場に残って様々な蒸気機関車の製造に従事した。言わば日本の蒸気機関車の生みの親である。皮肉なことに、蒸気機関車の生みの親の祖父リチャード・トレヴィシックと同様、その孫R・F・トレヴィシックの名も日本ではあまり知られていない。

          その子供は日本郵船の船長を務めた人で、この人がフランク奥野氏の父にあたる。

          風の便りで、フランクは数年前にロンドンのご自宅を引き払って日本に戻られたと聞いている。僕の無精な性格が災いして音信を絶やしてしまったが、大好きなお酒に囲まれながら元気にお過ごしになっていれば良いのだが。

          毎年4月、リチャード・トレヴィシックの命日には、コーンウォールにあるトレヴィシック協会のメンバーたちが集まって、蒸気機関車の生みの親として自らの名が歴史に刻まれたことも知らずに、貧しく静かに死んでいったコーンウォールの偉人トレシヴィックを讃えている。


          (本稿は月刊ナイル寄稿文を加筆修正したものです)
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