From the West to the East.〜maztoya's blog〜松任谷愛介日々彼是。

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    クリスマスクラッカーの謎(上) 16:44
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      英国、冬の風物詩

      10月最終の土曜から日曜に変わるとき、夏時間から冬時間に変わる。時計を1時間先に進めなければならない。日没の時間がこの日を境に5時半から4時半になる。いよいよ憂鬱な季節の到来である。ノイローゼで自殺する人が急増するらしい。こんな暗くて寒い英国で生きていくための知恵なのか、この時期、宗教的なイベントが相次いで行われる。

      ハロウィンは10月最終週。スーパーでは大きなかぼちゃや仮装コスチュームが並ぶが、どうも英国のハロウィンは地味で盛り上がりに欠ける。たまに近所で子供達が悪魔や魔女に変身して「トリック・オア・トリート?」と、お菓子を貰いに家庭を回る姿を見かけるものの、そこは保守的な英国人家庭で育った子供たちのこと、決してアメリカ人の子供のように快活に遊びきれないで、親の目の届く範囲で遠慮がちにハロウィンを楽しむ。英国政府も、知らない家には行かないこととか、貰ったお菓子は親に確認してもらうことなどと警告を出している。米国流の派手なハロウィンは英国には馴染みそうもない。

      11月5日はガイフォークスデイ。むしろ英国人はこちらにフィーバーする。ガイフォークスという人物の国王暗殺の企てが失敗したことを祝う日。日本では打ち上げ花火は夏の風物詩だが此処では冬の特権。ワーグナーやエルガーの吹奏曲の生演奏に合わせて、これでもかと云う程の花火が、各公園やテムズ川沿いで打ち上げられる。日本の花火のような綺麗さはないが、火の粉が頭上に落ちてくるほどの近さで見ることが出来るのがいい。首の悪い人は要注意である。ヒースローに入るパイロット達もまた大変だろう。

      さて、それが終わると街はいっせいにクリスマスの飾り付けとなる。中でもリージェント通りのイルミネーションは必見。毎年有名アーティストがスイッチを入れるのが慣習となっている。パブやガソリンスタンドにはモミの木が山積みとなり、皆、車で買い付けにきて、家の表通りから一番見える部屋にツリーを飾る。一通りの仕度が済んだら後は静かに厳かにクリスマスを迎えるのみ。24日の夜は近所の子供達が賛美歌を歌いに各家庭を回り、人々は聖なる夜の施しを渡す。その施しは教会に集められ、クリスマスを祝えない環境の人たちへのプレゼントとなる。

      12月に入るとクリスマスパーティーが解禁だ。家族や親類を集めたクリスマス、会社の同僚たちのクリスマス・・・場面はさまざまだが、たいていの場合、ディナーパーティーは大きなテーブルに男女交互に座るようにアレンジされ、そこに無くてはならないのがクリスマスクラッカーである。


      (次号に続く)




















      | クロスカルチャー | comments(0) | - | posted by maztoya
      リチャード・トレヴィシックの短い物語 〜早すぎた天才発明家の生涯(下)〜 16:15
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        リチャード・トレヴィシックの短い物語
        早すぎた天才発明家の生涯(下)


        (前号からの続き)

        蒸気機関車の夢は破れたが、新天地ペルーでの銀鉱山事業に新たな夢を求めた気丈なリチャード・トレヴィシック(1771〜1833)だった。1816年にペルーのCerrro de Pascoに到着し銀鉱山のエンジニアの仕事を始めたが、間もなくオーナーと些細な事で折り合いが悪くなり、結局仕事を失ってしまう。

        町に居られなくなったトレヴィシックは、採掘技術のコンサルタントとしてペルー中を歩き回る。幸いにして彼の技術は各地で評価され、政府からも感謝の印としていくつかの採掘権付きの土地が与えられるなど、ようやく運が上向きかけた矢先のこと。

        再び訪れた悲劇。トレヴィシックの波瀾万丈の人生には運命の無情さを感じずにはいられない。当時ペルーはスペインから独立のための内乱が繰り返され、戦況は日増しに悪化していった。その時トレヴィシックが汗水流して稼いだ富は5000ポンドに及んだが、身を守るためには財産を放棄して国外に脱出しなければならなくなったのだ。彼は全てを置いてコロンビアに逃げた。

        ここでも不屈の根性で様々な事業を手掛けるが、運は巡って来なかった。終いにはジャングルでの悲惨な放浪生活となり、何度も死にかけたことがあったようだ。ある時はワニに襲われ川に引きずり込まれたところを間一髪、通りがかりの狩猟ボートの投げ縄に助けられたという。無一文のトレヴィシックは絶望の底に打ちひしがれていた。

        スティーブンソンとの再会

        英国はその頃産業革命の真っただ中にあった。トレヴィシックが発明した高圧蒸気機関車は後継者の手により改良され技術革新を牽引していた。鉄道は真に時代の寵児となる予感が漂っていた。鉄道時代の夜明け。これをリードしたのがジョージ・スティーブンソン(1781〜1848)とその一人息子ロバート・スティーブンソン(1803~1859)であった。

        ロバートは英国内だけでなく諸外国の鉄道建設にも関与していた。コロンビアの鉄道事業にも乗り出したが、これは結局失敗に終わり、1827年夏の終わり、敗戦処理を終えてCartagena港で英国行きの船を待っていた。その時、船会社の職員がロバートに声をかけてきた。

        「ねえ旦那、あちらにも英国人がいらっしゃいますぜ。ひどい身成をしているが何でも祖国では蒸気機関車を発明していたそうな。トレヴィシックという方だそうですが、金が無くては祖国に戻ることも出来やしない。」ロバート・スティーブンソンは桟橋から海を眺めるその男のもとへ駆け寄り、英国行きの船代として50ポンドを渡して手を握ったという・・・スティーブンソン24歳、トレヴィシック56歳の出会い。

        多少の脚色が入ってしまったが、この劇的な出会いは事実である。幼い頃ロバートは父ジョージに連れられて、蒸気機関の展示会で熱弁を振るうトレヴィシックを何度か見かけたことがあり、親子揃って彼に対する尊敬の念を抱いていたと言われる。コーンウォールの青い海に望郷の念を描いたトレヴィシックは、スティーブンソンの助けを得て、11年ぶりに故郷の土を踏むことになった。

        久しぶりに見る英国は様変わりしていた。トレヴィシック自身、長年の貧困生活ですっかり衰弱し、恐らく以前のような不屈で自信満々な面影は消え失せていたに違いない。そして何よりも悲しいことに、祖国に彼を待つ人は、家族を含め誰一人居なかった。

        蒸気機関車の魂

        その後トレヴィシックは気を取り直していくつかの職場を転々としながらエンジニアリングの仕事に従事するが、結果を残すこと無く肺炎を煩いこの世を去る。1833年4月、享年62歳。貧乏で孤独な終生だった。

        唯一の救いは、リチャード・トレヴィシックの血を受け継いだ才能があったことだ。子供のフランシス・トレヴィシック(1812〜1877)は鉄道技師長となり、英国の蒸気機関車の開発者にあたった。孫のリチャード・フランシス・トレヴィシック(1845〜1913)もまた蒸気機関車に従事した。

        1892年、日本の鉄道庁は、世界の産業革命にキャッチアップするべく鉄道技術の習得のため、アドバイザーとしてR・F・トレヴィシックを招聘した。日本の蒸気機関車第1号となる国鉄860型は、彼の総指揮によって造られたものである。R・F・トレヴィシックは寺の娘と結婚し、その後も神戸工場に残って様々な蒸気機関車の製造に従事した。言わば日本の蒸気機関車の生みの親である。皮肉なことに、蒸気機関車の生みの親の祖父リチャード・トレヴィシックと同様、その孫R・F・トレヴィシックの名も日本ではあまり知られていない。

        その子供は日本郵船の船長を務めた人で、この人がフランク奥野氏の父にあたる。

        風の便りで、フランクは数年前にロンドンのご自宅を引き払って日本に戻られたと聞いている。僕の無精な性格が災いして音信を絶やしてしまったが、大好きなお酒に囲まれながら元気にお過ごしになっていれば良いのだが。

        毎年4月、リチャード・トレヴィシックの命日には、コーンウォールにあるトレヴィシック協会のメンバーたちが集まって、蒸気機関車の生みの親として自らの名が歴史に刻まれたことも知らずに、貧しく静かに死んでいったコーンウォールの偉人トレシヴィックを讃えている。


        (本稿は月刊ナイル寄稿文を加筆修正したものです)
        | イギリス・欧州 | comments(0) | - | posted by maztoya
        リチャード・トレヴィシックの短い物語 〜早すぎた天才発明家の生涯(上)〜 15:50
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          リチャード・トレヴィシックの短い物語
          早すぎた天才発明家の生涯(上)


          数年前、飯倉のバーで初老の紳士と隣り合わせた。恰幅良く彫りの深い顔立ちの紳士は、連れの後輩と思しき日本人紳士から「フランク」と呼ばれ、「アメリカンクラブで、かなりお飲みになったのですから少しは控え目に」と小言を言われながらも「ネクスト スカッチ!」と棚に並ぶシングルモルトを端からストレートで飲み干していた。小耳に挟んだ会話からこの紳士が僕と同様、ロンドンからの出張者であることが分り、親近感が増して世間話をするようになった。紳士は「僕の曾祖父が蒸気機関車を発明したのだよ」と語り、酒の席の戯言にしては妙に真実みのある話に、僕は聞き惚れた。

          それがフランク奥野氏と僕との出会いで、このご縁をきっかけにフランクのロンドンのご自宅にもお邪魔するような関係となった。


          トレヴィシックとスティーブンソン
          蒸気機関車を発明したのは誰なのか?

          小学校で学んだ教科書には、英国人ジェームズ・ワットが蒸気機関を開発し、その後の蒸気機関車の発明者は英国人ジョージ・スティーブンソンだと書いてあったと記憶している。少なくともトレヴィシックという名前は出て来なかったと思う。しかし現代の定説では、コーニッシュ、リチャード・トレヴィシック(1771〜1833)こそが蒸気機関車の実際の発明者である。

          この産業革命に先駆的な偉業を成した天才発明家は、生前にはほとんど脚光を浴びること無く、自らの葬式費用すら残すことが出来ずに、孤独に生涯の幕を閉じた。フランクとの出会いで、200年前の、僕にとってどうでもいい話がどうでもよく無くなった。

          トレヴィシックは1771年、英国南西部コーンウォールに、炭坑を営む父母のもとに生まれる。当時の英国は産業革命の波が押し寄せていた。ジェームズ・ワット(1736〜1819)は既に蒸気機関を開発していたが、大規模な設備を必要とするものであったため、この小型化が出来れば産業界に飛躍的な貢献をするであろうことは自明の理だった。

          18世紀の終わる頃、トレヴィシックはコーンウォールの鉱山会社の技師としてボイラーの開発に携わっていたが、ここで高圧蒸気機関を開発し、蒸気機関の小型高性能化に成功した。トレヴィシック弱冠25歳のことである。

          ワットとトレヴィシックの間には様々な逸話がある。蒸気機関の量産化で大成功を収めたワット商会は天才トレヴィシックの高圧蒸気機関に脅威を感じ、特許侵害の訴えを起こしたり脅迫まがいの事をしたり、あらゆる嫌がらせをしたと云われる。真偽のほどはともかくとして、ワット自身が高圧蒸気機関は危険すぎるとして真っ向から反対していたことは事実のようだ。


          初めての蒸気機関車

          業界の大御所ワットの意見を無視して高圧蒸気機関を開発したトレヴィシックの次の目標は、蒸気機関を積んで動く台車を作ることだった。そして1801年に蒸気自動車Puffing Devil号の試作に成功する。

          当時のウェールズは石炭や鉄鉱石の産地として重要な拠点となっており、その積み出しには、鉄道馬車が使用されていた。トレヴィシックの更なる夢は、馬に代わってレールの上を蒸気機関が引っ張る運搬車の開発。1804年、蒸気機関車第1号 Penydarren号が、炭坑と街を結ぶ9マイルの距離を、鉄10トンと70人を乗せた5両の車両を牽引しての走行に成功したのだ。時速はたったの8キロだったという。

          運命の男トレヴィシックの人生は実用新案を得て順風漫歩という訳には行かなかった。当時の鋳鉄製のレールでは重い蒸気機関車を支えることが出来なかったのだ。素晴らしい発明も実用性に乏しい鉄くずと看做され、間もなくして鉄道馬車が再び運搬車として取って代わるのである。

          トレヴィシックはその後も機関車造りに精を出すが、どれも実用化には至らず、1808年のCatch Me Who Can号を最後に、蒸気機関車の開発からあっさりと足を洗ってしまう。財産はほとんど底をついていた。

          いくつかの企業を転々としながらも研究者として生計を立てていたトレヴィシックのもとに、南米ペルーの銀鉱山のオーナーがやってきた。ペルーでは当時高地であるが故のエンジントラブルが多発し、これを改善するためにはトレヴィシックの高圧技術が欠かせなかったのだ。オーナーの懇願を受けて、トレヴィシックはペルーに向かう。一儲けしてすぐに帰って来ようと思っていたに違いない。だが、これが運命を変える旅になってしまうことを、自信家のトレヴィシックは想像だにしなかった。生まれたばかりの子供を残して英国を後にしたのは1816年のことである。

          皮肉な事に、トレヴィシックが蒸気機関車から足を洗って以降、鋳鉄技術が格段と改良され、これに併せて蒸気機関車の役割りが再び期待されるようになった。1825年、英国に初めての商業鉄道が開通し、米国、フランス、ドイツへと、トレヴィシックが生み出した原理を使った蒸気機関車が広まっていく。この開発を進めたのはジョージ・スティーブンソン(1781〜1848)であった。


          (次号に続く)
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