From the West to the East.〜maztoya's blog〜松任谷愛介日々彼是。

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    リチャード・トレヴィシックの短い物語 〜早すぎた天才発明家の生涯(下)〜 16:15
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      リチャード・トレヴィシックの短い物語
      早すぎた天才発明家の生涯(下)


      (前号からの続き)

      蒸気機関車の夢は破れたが、新天地ペルーでの銀鉱山事業に新たな夢を求めた気丈なリチャード・トレヴィシック(1771〜1833)だった。1816年にペルーのCerrro de Pascoに到着し銀鉱山のエンジニアの仕事を始めたが、間もなくオーナーと些細な事で折り合いが悪くなり、結局仕事を失ってしまう。

      町に居られなくなったトレヴィシックは、採掘技術のコンサルタントとしてペルー中を歩き回る。幸いにして彼の技術は各地で評価され、政府からも感謝の印としていくつかの採掘権付きの土地が与えられるなど、ようやく運が上向きかけた矢先のこと。

      再び訪れた悲劇。トレヴィシックの波瀾万丈の人生には運命の無情さを感じずにはいられない。当時ペルーはスペインから独立のための内乱が繰り返され、戦況は日増しに悪化していった。その時トレヴィシックが汗水流して稼いだ富は5000ポンドに及んだが、身を守るためには財産を放棄して国外に脱出しなければならなくなったのだ。彼は全てを置いてコロンビアに逃げた。

      ここでも不屈の根性で様々な事業を手掛けるが、運は巡って来なかった。終いにはジャングルでの悲惨な放浪生活となり、何度も死にかけたことがあったようだ。ある時はワニに襲われ川に引きずり込まれたところを間一髪、通りがかりの狩猟ボートの投げ縄に助けられたという。無一文のトレヴィシックは絶望の底に打ちひしがれていた。

      スティーブンソンとの再会

      英国はその頃産業革命の真っただ中にあった。トレヴィシックが発明した高圧蒸気機関車は後継者の手により改良され技術革新を牽引していた。鉄道は真に時代の寵児となる予感が漂っていた。鉄道時代の夜明け。これをリードしたのがジョージ・スティーブンソン(1781〜1848)とその一人息子ロバート・スティーブンソン(1803~1859)であった。

      ロバートは英国内だけでなく諸外国の鉄道建設にも関与していた。コロンビアの鉄道事業にも乗り出したが、これは結局失敗に終わり、1827年夏の終わり、敗戦処理を終えてCartagena港で英国行きの船を待っていた。その時、船会社の職員がロバートに声をかけてきた。

      「ねえ旦那、あちらにも英国人がいらっしゃいますぜ。ひどい身成をしているが何でも祖国では蒸気機関車を発明していたそうな。トレヴィシックという方だそうですが、金が無くては祖国に戻ることも出来やしない。」ロバート・スティーブンソンは桟橋から海を眺めるその男のもとへ駆け寄り、英国行きの船代として50ポンドを渡して手を握ったという・・・スティーブンソン24歳、トレヴィシック56歳の出会い。

      多少の脚色が入ってしまったが、この劇的な出会いは事実である。幼い頃ロバートは父ジョージに連れられて、蒸気機関の展示会で熱弁を振るうトレヴィシックを何度か見かけたことがあり、親子揃って彼に対する尊敬の念を抱いていたと言われる。コーンウォールの青い海に望郷の念を描いたトレヴィシックは、スティーブンソンの助けを得て、11年ぶりに故郷の土を踏むことになった。

      久しぶりに見る英国は様変わりしていた。トレヴィシック自身、長年の貧困生活ですっかり衰弱し、恐らく以前のような不屈で自信満々な面影は消え失せていたに違いない。そして何よりも悲しいことに、祖国に彼を待つ人は、家族を含め誰一人居なかった。

      蒸気機関車の魂

      その後トレヴィシックは気を取り直していくつかの職場を転々としながらエンジニアリングの仕事に従事するが、結果を残すこと無く肺炎を煩いこの世を去る。1833年4月、享年62歳。貧乏で孤独な終生だった。

      唯一の救いは、リチャード・トレヴィシックの血を受け継いだ才能があったことだ。子供のフランシス・トレヴィシック(1812〜1877)は鉄道技師長となり、英国の蒸気機関車の開発者にあたった。孫のリチャード・フランシス・トレヴィシック(1845〜1913)もまた蒸気機関車に従事した。

      1892年、日本の鉄道庁は、世界の産業革命にキャッチアップするべく鉄道技術の習得のため、アドバイザーとしてR・F・トレヴィシックを招聘した。日本の蒸気機関車第1号となる国鉄860型は、彼の総指揮によって造られたものである。R・F・トレヴィシックは寺の娘と結婚し、その後も神戸工場に残って様々な蒸気機関車の製造に従事した。言わば日本の蒸気機関車の生みの親である。皮肉なことに、蒸気機関車の生みの親の祖父リチャード・トレヴィシックと同様、その孫R・F・トレヴィシックの名も日本ではあまり知られていない。

      その子供は日本郵船の船長を務めた人で、この人がフランク奥野氏の父にあたる。

      風の便りで、フランクは数年前にロンドンのご自宅を引き払って日本に戻られたと聞いている。僕の無精な性格が災いして音信を絶やしてしまったが、大好きなお酒に囲まれながら元気にお過ごしになっていれば良いのだが。

      毎年4月、リチャード・トレヴィシックの命日には、コーンウォールにあるトレヴィシック協会のメンバーたちが集まって、蒸気機関車の生みの親として自らの名が歴史に刻まれたことも知らずに、貧しく静かに死んでいったコーンウォールの偉人トレシヴィックを讃えている。


      (本稿は月刊ナイル寄稿文を加筆修正したものです)
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